私の心に響いた言葉

若い頃使っていた手帳に挟んでいたメモに、私が日頃敬服している実践派クリエイターである森本亜矢さんの手によるブログで引用されている一編の詩に目が止まった。森本さんには、本ブログのデザインもお願いしている。
マザーテレサが愛したケント・M・キース氏の言葉だそうである。

人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。

あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたといわれるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい。

目的を達しようとするとき、邪魔立てする人が出てくるでしょう。
気にすることなく、やり遂げなさい。

善い行ないをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。
気にすることなく、し続けなさい。

助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。
気にすることなく、助け続けなさい。

あなたの中の最良のものを、世に与えなさい。
蹴り返されるかもしれません。
でも気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。

「逆説の十ヵ条」と題するこの詩に初めて接したとき、目の前がパッと開け、ものの見方・考え方が180度変わったのを今でも覚えている。

トイレ百態(その2)

(前回より続く)
今度は、今ホットな話題を提供し続けている香港である。広東語では「界」という字をよく使う。男界女界も中国の法律が適用されるのかな。

続いては、松山市のとある観光地のトイレサインだ。さすが坊ちゃんのゆかりの街。大正ロマン薫るものになっている。

次はまた地球の裏側へ飛ぶ。情熱のタンゴの都。アルゼンチンはブエノスアイレスのタンゴクラブのトイレサイン。なんとなく哀愁が漂っている。

続いては、ベトナムのダナン付近のサービスエリアでの一コマ。明るい色調で私たちにも違和感はない。

ハノイの日本語学校のトイレサイン。男はNAM、女はNUというのか。中国語と似ている。

お次は、タイから。ウィークエンドマーケットにて。いろんなトイレサインが売っている。

同じくタイ・バンコクのワット・トライミットの中の公衆トイレのサイン。その文字にタイの雰囲気が漂う。

続いては、UAEのドバイのトイレサインだ。女性がアバヤを着ている。こちらは、アラブの雰囲気が漂う。

トイレは万国共通。どの国も奇麗になった。

宮仕えの想い出

私にも宮仕え(サラリーマン生活)をしていた時代がある。それは大学を出てから30歳になるまでの8年間であった。右も左もわからない田舎の大学生が突然大手町に勤務を始めた。誰でもが憧れる大手町も私にとってはただの人の密度の多い街に過ぎなかった。

当時は土曜日は半ドン(死語?)出勤が普通で、毎月の給料も現金の手取りか銀行振り込みかが選べた。

国際通信手段は、テレックスと四字(石ヘンに馬)電と写真電報があり、四字馬電にはすこぶる閉口した。四字馬電とは中国語の漢字ひとつひとつに4桁の数字が割り当てられていて、それをまたひとつひとつ探し出して文章に起こし、さらに一文字ずつKDDIのオペレーターに電話で口頭で伝えていくのである。「1280(ひと ふた はち まる)、3682(さん ろく はち にー)・・・」

毎日、来る日も来る日も独身男の声が、夜遅くまでさみしく響き渡った。

これが私の中国語の基礎が出来上がっていようとは、その時は思いもよらなかった。

第二の故郷(その2)

(前回より続く)
私の広州での仕事は、当時、日中貿易の約9割を成約していた広州交易会の日本事務局で、20日間(最初は45日間であった。)で約5000人余りの日本からはるばるやってくるビジネスマンの宿泊先の確保であった。

今のようにオンラインで結ばれているわけではなく、完全に手作業で、しかも、5000人皆が予約通りに訪れることはなかった。

台風の晩の午前零時すぎ、ずぶ濡れではるばる日本からやってきた企業戦士に、部屋が満室だからとツインの部屋に3人、4人とお願いしたり、別のホテルに誘導するときなどは生きた心地がしなかった。逃げ出したくなるような気持ちを抑えての仕事だった。

という具合に、ここでありとあらゆる仕事を学んだ。それまでは「社用で中国に行けるから嬉しい、」という素人っぽい想いが、もう行きたくないと、もろくも崩れ去った。

他方でやっと一人前になれたような気がした。

広州は昔から北京中央とは一定の距離を置いていて、しかも華僑の故郷ともあってもともとお金儲けには抵抗がない土地柄なのである。

「寧ろ(むしろ)鶏口となるも牛後となるなかれ」の精神が貫徹しており、リヤカーを引いてでも独立独歩の道を歩めと教えられた。最後まで鶏口でやってきたのもこの教えによるところが大きい。

計8回広州交易会には参加したから、その間ちょうど経済特区となったばかりの小さな漁村だった深センが、みるみる大都会に変貌していくありさまは、さながら「桑田の変」(蒼海桑田)そのものであった。

中国の劇的変化と広東で学んだあらゆることが私の未来の礎になろうとは、その時は露とも知れなかった。