宮仕えの想い出

私にも宮仕えをしていた時代がある。それは大学を出てから30歳になるまでの8年間であった。右も左もわからない田舎の大学生が突然大手町に勤務を始めた。誰でもが憧れる大手町も私にとってはただの人の密度の多い街に過ぎなかった。

当時は土曜日は半ドン(死語?)出勤が普通で、毎月の給料も現金の手取りか銀行振り込みかが選べた。

国際通信手段は、テレックスと四字(石ヘンに馬)電と写真電報があり、四字馬電にはすこぶる閉口した。四字馬電とは中国語の漢字ひとつひとつに4桁の数字が割り当てられていて、それをまたひとつひとつ探し出して文章に起こし、さらに一文字ずつKDDIのオペレーターに電話で口頭で伝えていくのである。「1280(ひと ふた はち まる)、3682(さん ろく はち にー)・・・」

毎日、来る日も来る日も独身男の声が、夜遅くまでさみしく響き渡った。

これが私の中国語の基礎が出来上がっていようとは、その時は思いもよらなかった。

第二の故郷(その2)

(前回より続く)
私の広州での仕事は、当時、日中貿易の約9割を成約していた広州交易会の日本事務局で、20日間(最初は45日間であった。)で約5000人余りの日本からはるばるやってくるビジネスマンの宿泊先の確保であった。

今のようにオンラインで結ばれているわけではなく、完全に手作業で、しかも、5000人皆が予約通りに訪れることはなかった。

台風の晩の午前零時すぎ、ずぶ濡れではるばる日本からやってきた企業戦士に、部屋が満室だからとツインの部屋に3人、4人とお願いしたり、別のホテルに誘導するときなどは生きた心地がしなかった。逃げ出したくなるような気持ちを抑えての仕事だった。

という具合に、ここでありとあらゆる仕事を学んだ。それまでは「社用で中国に行けるから嬉しい、」という素人っぽい想いが、もう行きたくないと、もろくも崩れ去った。

他方でやっと一人前になれたような気がした。

広州は昔から北京中央とは一定の距離を置いていて、しかも華僑の故郷ともあってもともとお金儲けには抵抗がない土地柄なのである。

「寧ろ(むしろ)鶏口となるも牛後となるなかれ」の精神が貫徹しており、リヤカーを引いてでも独立独歩の道を歩めと教えられた。最後まで鶏口でやってきたのもこの教えによるところが大きい。

計8回広州交易会には参加したから、その間ちょうど経済特区となったばかりの小さな漁村だった深センが、みるみる大都会に変貌していくありさまは、さながら「桑田の変」(蒼海桑田)そのものであった。

中国の劇的変化と広東で学んだあらゆることが私の未来の礎になろうとは、その時は露とも知れなかった。