トイレ百態(その2)

(前回より続く)
今度は、今ホットな話題を提供し続けている香港である。広東語では「界」という字をよく使う。男界女界も中国の法律が適用されるのかな。

続いては、松山市のとある観光地のトイレサインだ。さすが坊ちゃんのゆかりの街。大正ロマン薫るものになっている。

次はまた地球の裏側へ飛ぶ。情熱のタンゴの都。アルゼンチンはブエノスアイレスのタンゴクラブのトイレサイン。なんとなく哀愁が漂っている。

続いては、ベトナムのダナン付近のサービスエリアでの一コマ。明るい色調で私たちにも違和感はない。

ハノイの日本語学校のトイレサイン。男はNAM、女はNUというのか。中国語と似ている。

お次は、タイから。ウィークエンドマーケットにて。いろんなトイレサインが売っている。

同じくタイ・バンコクのワット・トライミットの中の公衆トイレのサイン。その文字にタイの雰囲気が漂う。

続いては、UAEのドバイのトイレサインだ。女性がアバヤを着ている。こちらは、アラブの雰囲気が漂う。

トイレは万国共通。どの国も奇麗になった。

宮仕えの想い出

私にも宮仕え(サラリーマン生活)をしていた時代がある。それは大学を出てから30歳になるまでの8年間であった。右も左もわからない田舎の大学生が突然大手町に勤務を始めた。誰でもが憧れる大手町も私にとってはただの人の密度の多い街に過ぎなかった。

当時は土曜日は半ドン(死語?)出勤が普通で、毎月の給料も現金の手取りか銀行振り込みかが選べた。

国際通信手段は、テレックスと四字(石ヘンに馬)電と写真電報があり、四字馬電にはすこぶる閉口した。四字馬電とは中国語の漢字ひとつひとつに4桁の数字が割り当てられていて、それをまたひとつひとつ探し出して文章に起こし、さらに一文字ずつKDDIのオペレーターに電話で口頭で伝えていくのである。「1280(ひと ふた はち まる)、3682(さん ろく はち にー)・・・」

毎日、来る日も来る日も独身男の声が、夜遅くまでさみしく響き渡った。

これが私の中国語の基礎が出来上がっていようとは、その時は思いもよらなかった。

第二の故郷(その2)

(前回より続く)
私の広州での仕事は、当時、日中貿易の約9割を成約していた広州交易会の日本事務局で、20日間(最初は45日間であった。)で約5000人余りの日本からはるばるやってくるビジネスマンの宿泊先の確保であった。

今のようにオンラインで結ばれているわけではなく、完全に手作業で、しかも、5000人皆が予約通りに訪れることはなかった。

台風の晩の午前零時すぎ、ずぶ濡れではるばる日本からやってきた企業戦士に、部屋が満室だからとツインの部屋に3人、4人とお願いしたり、別のホテルに誘導するときなどは生きた心地がしなかった。逃げ出したくなるような気持ちを抑えての仕事だった。

という具合に、ここでありとあらゆる仕事を学んだ。それまでは「社用で中国に行けるから嬉しい、」という素人っぽい想いが、もう行きたくないと、もろくも崩れ去った。

他方でやっと一人前になれたような気がした。

広州は昔から北京中央とは一定の距離を置いていて、しかも華僑の故郷ともあってもともとお金儲けには抵抗がない土地柄なのである。

「寧ろ(むしろ)鶏口となるも牛後となるなかれ」の精神が貫徹しており、リヤカーを引いてでも独立独歩の道を歩めと教えられた。最後まで鶏口でやってきたのもこの教えによるところが大きい。

計8回広州交易会には参加したから、その間ちょうど経済特区となったばかりの小さな漁村だった深センが、みるみる大都会に変貌していくありさまは、さながら「桑田の変」(蒼海桑田)そのものであった。

中国の劇的変化と広東で学んだあらゆることが私の未来の礎になろうとは、その時は露とも知れなかった。

第二の故郷(その1)

人にはたいてい第二の故郷を持っている。あなたはどこですか?

私の場合、香港か中国の広州市になる。香港は行った回数が延べ200回を超える最も長く滞在した思い出の地であり、広州は、私が仕事を覚え、将来の行く末を決めることになった私の原点ともいうべき地である。

一番早くいったのが1984年のことだから、かれこれ36年前になる。まだ文革の余波の残る我々外国人にとっては特別扱いされた「古き良き時代」であった。

少々窮屈な点を除けば、あの闘争心旺盛な人だらけの中国で「まともに」過ごすことができた。その象徴が外貨兌換券だった。いわゆる二重価格制なのであるが、この威力は目を見張るものがあった。何をしても並ぶ必要がなかった。

また食事なども別扱いだった。当時の料理と言ったら、まず小皿に皮付きの落花生と唐辛子ソースと練り辛子に、プーアル茶が入ったポットがそっと鎮座しており、ザイモクと呼んでいた広東ではポピュラーな青野菜の「菜芯」の炒め物や白茹でのエビ、痩せた焼鵞(ロースト・ダック)などといった広東料理がいつも並んでいた。

1時間待ってもまだ一品も運ばれてこない人民元払いの客をしり目に平然と何食わぬ顔で食事をすることを常とした。

事実上の租界であった。

トイレ百態(その1)

これは何だと思いますか?


実はこれ、沖縄の那覇市に構える、とある居酒屋のトイレサインなのだ。男・女もこうなる。

私には妙な収集癖があって、トイレのサインの画像を集めるという変な癖がある。

続いては、関門サービスエリアのトイレサイン。関門海峡といえば下関市のフグである。なんとも福々しい。

次は、神聖な太宰府天満宮にあるトイレサイン。このトイレを使うのはやはり善男全女であります。

お次は台湾台北市の居酒屋。美男子は言い過ぎだけど、水姑娘(スイ・クーニャン)とは、粋なネーミングである。

最後は、シンガポールのチャイナタウン・ヘリテージセンターのトイレサインである。

たかがトイレ、されどトイレ。
いかにも、お土地柄が出てて面白い。

(次回に続く)

裃(かみしも)と人民服

昔、中国かぶれと呼ばれる人たちがいて、独自のカルチャーを形成していた。人民服を着て、手には中国本を持ち、鼓弓でも持ったなら、もう立派な中国かぶれの出来上がりである。

今風に言うと「中国オタク」である。中華料理を好んで食べ、なかには中国語がペラペラな猛者もいた。まさに中国べったりの生活を送っていた。

一方、同じ友好人士でも日本人を忘れず、堂々と中国人と渡り合うことのできる人のことを、裃を着て付き合う人と呼ばれた。堂々と言うと違和感があるが、20年前は、確かにそんな雰囲気だった。

逆に言えば、今や中国の経済力が日本を追い抜き脅威と映っているのか、中国に対して厳しい論調が増え、すっかり変わってしまった。

国民どうしがうまく付き合っていくためには、何を着て臨めばいいのだろうか?

10歳の少年の夢がかなった日(その2)

(前回より続く)
40年来の夢をかなえた後、街へ降りてきて来て小腹が空いたので、場末の食堂に入ることにした。

家庭料理を売りにしたこの店の店内は、混む時間ではなかったので数名の客がいるだけで、のんびりした空気に包まれていた。

メニューには狗肉や兎肉といった文字が普通に並んでいる。

大好物の魚香肉糸をついばむ。魚香肉糸は黒酢の香りがたまらない。あの辛味、酸味、甘味の絶妙なバランスの効いた魚香ソースだけは、本場に足を運ばなければ、北京でも香港でも食べられない味だ。

でも、本場四川ではどこでも普通に食べられる家庭料理である。

 

肉糸と言えば、北京の北京飯店東楼の京醤肉糸も甲乙つけがたい(1986年当時)。あの甜麺醤の香りを嗅いだだけで白ご飯が何杯も進む…。

 

結局ここでは、2-3皿つまんで後にした。

 

ホテルに帰る道すがら、街角で青空書道教室に遭遇した。小学生ぐらいの子供たちが無心で紙と墨に向かってる。

そこには凛とした雰囲気に包まれていた。

「出でよ!未来の王義之たちよ!」

大仏と四川家庭料理とちびっこ書家たちに後ろ髪を引かれる思いで楽山の街を後にした。(2006年筆)

10歳の少年の夢がかなった日(その1)

わたしが10歳のころ、ふと目にした世界全集のグラビアの一ページにくぎ付けになった。

それは崖を繰り抜いて作られた巨大な摩崖仏で、そのスケールの大きさと茫洋とした風貌が私の心をとらえて離さなかった。けし粒大に過ぎない人間が仏様の足の下で蟻のように右往左往している・・・。

あれから40余年。中国の楽山市に来た。

楽山(らくさん)の街は、中国四川省成都の南約120km離れている中国の奥地である。成都からは高速道路が出来ていて、文字通り楽に行けるようになった。

楽山大仏と称するモニュメントを前に私も仁王立ちになって相対する。

一目見るなり「でかいっ!」思わず口をついて出る。

その大きさと言ったら奈良の東大寺の大仏が小さく見える。さもありなん、高さ71メートルで奈良の大仏の五倍だそうである。

眼前を滔々と流れる岷江(みんこう)の怒りを鎮めるために建立されたという。

しかも、建造された804年当時、多くの大仏が国家によって造られたのに対して、楽山大仏は民衆の力で作られたという。こんな時、中国人の持つ大衆の、時代や世代を超えた底知れぬパワーを感じるのだ。

40年たった今でも相変わらず仏様の足元で、蟻のように人が右往左往していた。

10歳の少年の夢がかなった瞬間だった。

その当時は海外なんて夢のまた夢。ましてや闘争に明け暮れていた竹のカーテンの中国の奥地に行けるなんて思ってもみなかった。静かではあるが、飛び上がりたいほどの興奮をしたことを覚えている。

(2006年筆)

本ブログを再編リニューアルいたしました

読者の皆さん、永らくのご無沙汰 失礼しました。

このたび新たに本ブログを再編リニューアルいたしました。

今まで以上に、さらに読みやすくなったのではないかと存じます。

この再編に際して、亜矢さんには大変なご尽力をいただきました。

この場を借りまして厚くお礼申し上げます。

これからも読者各位のご健勝をお祈りいたしますと共に、本ブログを何卒よろしくお願い申し上げます。

 

海を渡っていった日本人  僕らはもっと自信を持っていい!(その3)

う一つの広く知られている日本人町とも言える
アメリカ・ロサンジェルスのリトルトーキョー

20世紀に入り、多くの日本人がこの地に移住し、
太平洋戦争での惨禍を克服して
現在に至っていることは誰もが知っていることだろう。
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私は2009年に、初めてニッポン商品を売り込むことを目的に
約二年ぶりにロサンジェルスを訪れた。
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中華街(China town)のような生活臭や商売臭は全くせず
食文化も含めた日本文化交流センターのような
とても落ち着いた印象である。
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ここには本格的な和食店をはじめ、
日本食材専門店舗も整っており、
充実した品揃えで販売している。
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また、全米の窓口となる実績ある専門商社も複数あることから、
アメリカ進出のゲートウェイの役割も担っている。
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ここ数年来、世界の主要先進国では
長引く不況を背景に、人種差別的な動き、
マイノリティー(社会的弱者・少数者)差別の運動が
顕在化するなかで、
アメリカの日系人社会は
毅然たる態度でこれに向き合っている。
我々の同胞は争いのない多民族共生の在り方の重要性を
戦禍を通じて身を以って知っているのだ。
民間外交、地域間交流の果たす役割も
とても大切なんだと、今になって改めて強く感じる。
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重ねて重ねて訴える、
僕ら日本人は、もっともっと自信を持っていい!
 
 
(シリーズおわり)
 
 
090339
リトルトーキョーにも桜の花が・・・