人生で一番高いところに登った日(その3)

宿へ着くや否やバタンきゅーとベッドに倒れこんだ。ひどい高山病である。激しい頭痛とめまいが襲ってきた。2~3時間は昏々と眠り続けたであろうか。

案内役の中国の人も起きてきたので麗江の街をひとまわりしてみようということになり、出かけることになった。若かった。旧市街がまるごと世界遺産という稀有な街で、地球上で唯一象形文字を使っている珍しい少数民族である。

はるか昔から連綿とずっと続いている生活風景は、素人の私が見ても大変興味深い。

自然と共生して生活しているその姿は、現代人の私たちの今後の在り方にきっと大きな示唆を与えるに違いない。

あんなに苦しんだ高山病も忘れたかのように、その後、民族音楽の夕べなどを楽しんだ後、宿に戻った。

夢のような一日だった。図らずも、こんな軽装で、人生で一番高いところに来るなんて。

(シリーズ終わり)

人生で一番高いところに登った日(その1)

中国の有機食品の認証団体に招待されて雲南省に行った時の事。
予定通り有機農場の見学などを終え、帰国の途に就こうかという時突然受け入れ団体のほうから明日サプライズを準備してるからとせわしない。

翌日、普段着の薄いジャンパーにシャツとスニーカーという普通の格好をして出かけた。行先も告げずに。マイクロバスに乗って、深い谷底から数時間山道を登っていく。お決まりのエンストをしながら。

急峻な山道が続いたかと思いきやいつの間にか切り立った崖の上にいた。そこは断崖絶壁で崖の下は1000m以上もあり、ガードレールもないから離合するたびに生きた心地がしなかった。

一歩間違えると奈落の底。車とすれ違うたびに、車内に「おお~っ」とどよめきが起きる。

精も根も着いた付き果てて着いたところはなんと標高3300mを超える地点だった。

これから玉龍雪山に登るのだという。「こんな軽装であんな高い山に?!」驚愕した。山小屋でジャケットと巨大な枕型の酸素バッグを借りてロープウェーに乗りこむ。

私たちの乗ったロープウェーは、わずか十分足らずの遊覧飛行だったが、その間、現地ガイドが言うには、山頂は5,580mでまだ誰も登頂したことのない処女峰であり、そこに横たわっているのはなんと10億年前の氷河であるとのこと、であった。

(シリーズ続く)

回想 -現代ゲテモノ食材考

今、ジビエが熱い。

各地でイノシシや鹿を加工調理して、レストランやお土産として供されるようになった。

今ではお洒落な食材として盛んに良いイメージで売り出し中だが、半世紀前の私がまだ子供の頃にも、シシ肉、シカ肉をはじめ、カエルやスズメ、ウズラ、兎肉は食べられるところはあった。

ところで普段では食べない「かわり種」食材として好きな人は好きだが、一般には目を背けられる、あるいは外国人から見ると奇異に思われるものもある。

馬肉、ナマコ、ホヤ、むつごろう等。

鮮魚の活き作りや割いて焼くウナギの蒲焼きなども、外国人から見れば、俗にゲテモノ食いと言われることもある。

鯨肉に至っては、政治問題化してしまうほど食材と文化は密接な繋がりがあり議論が絶えない。

しかし、ゲテモノという呼称は、我々が勝手にそう呼んでいるだけで、ここでは「かわり種食材」と呼ばしてもらう。

ここからは「閲覧注意」なのだが、私がこれまで食べたことのある「かわり種食材」を挙げてみると、

熊の掌、駱駝のコブ、象の鼻、ヤギの乳、ワニ、ヘビ、ダチョウ、サル、センザンコウ、アリクイ、ハクビシン、赤狗、猫、ネズミ、サソリ、アリ、ミミズク、鳩、キジ、野うさぎ、コブラ、シカ生肉などを覚えている。

そのほとんどが1980年代前半の中国広東省か雲南省である。

この頃までは、「広東では四つ脚で食べないのはイスとテーブルだけ」と豪語し、「かわり種食材」のことを「野味」と言って普通に食べていた。
広州には野味香餐庁という由緒ある料亭があり、清平路という通りの市場には、生きたアリクイやサルなどさながら動物園のようで、普通に路上で売っていた。

それが改革開放政策、アジア大会や北京オリンピックの開催、SARSの流行などで一遍に姿を消してしまった。(前述の清平路の野味市場はペットショップに様変わりして再び売っていたのを見て中国人の商魂の逞しさに驚嘆した。)

それでも今では、広州でもペットブームで野味は批判の的になっていると聞く。コロナ禍の今だから、尚更そうであるに違いない。

食は世につれ、世は食につれ。である。

僕のお気に入りカフェ

海外でも出張で同じ街に繰り返し行くと、自然とお気に入りのレストランやカフェが出来るもの。地元の人に案内されて知るお店、ガイドブックに出ている有名店もあるけど、独りで何も知らずに偶然にフラっと入った店が居心地がいいと、私の場合、お気に入りの店になることが多い。

シンガポールに私のお気に入りカフェがある。

場所は、有名な観光地であるサルタンモスクの裏路地にポツンとたたずむ何の変哲もない外観のカフェ。その名も「東坡」(トンボー)。北宋の大詩人-蘇東坡から取った屋号か。

レトロな趣きの店内が旅情を一層高めてくれる。

と、ここではや、お気に入り候補に挙がる。

解放前のノスタルジック・チャイナの雰囲気だが、決して古臭くなく、しかもこの国でポピュラーなファーストフード形式などのセルフ式でない、日本に普通にみられる喫茶店に近いのがかえって新鮮だ。

客も普段は屋台や飲茶楼では、騒々しくおしゃべりを楽しむのが常のシンガポーリアンも、この店では思い思いに読書やスマホに興じたり、静かに会話を楽しんでいる。

注文するのは決まってカヤトーストのセットメニューだ。

ほどなくすると、往時を偲ばせる旗袍(チーパオ)を纏った若い店員さんがトレーに乗った軽食を運んできてくれる。香ばしく焼けたトーストの香りとともに。

日本で今流行りのふかふかのパンとは違って、むしろ正反対の痩せた感じのパンにカヤジャムというシンプルな甘い香りのするジャムに厚めに塗ったマーガリンが特徴の南国風のスナックである。

私はなにを隠そう、ここのいたって分厚い不健康なマーガリンが大の好物なのである!

それとこぼしているのか、それともわざとそうしているのか、いつもソーサーにあふれているコーヒーがこの店の印象的な風景なのである。トレードマークの蓮華の形をしたティースプーンも影をひそめるほどである。

それにまた、お決まりのドロッとした半熟の卵がなぜか二個添えられている。これにキリっと香ばしい上抽を垂らすともうご機嫌な気分に包まれる。

この小宇宙が私の心をとらえて離さない。

ここ南洋の地にあって、遠く故郷を偲ぶ華僑一世たちに想いを寄せるようなそんな喫茶店である。

トイレ百態(その3)

(前回より続く)
続いては、台湾の古都・鹿港のトイレサインだ。見たままのデザインである。いかにも観光地らしい。

お次は、極東ロシアの華 ウラジオストックのレストランのトイレサインだ。いかにもロシアっぽい。

続いては、インドネシアのトイレサインである。いたって普通のオーソドックスなものである。

お次は、懐かしい画像を一枚。かつてはどこにでも見られたシールである。カンボジアのとあるホテルの便器に貼ってあった。

同じカンボジアのホテルで、それに似たシールを見つけた。こんな格好で用を足す人がまだたくさんいるからだろうか。

続いては、オーストラリアはゴールドコーストのトイレサイン。新しい波の予感がする。

その次は、香港のトイレサインを紹介しよう。中国ではトイレのことを厠所という。

お手洗いに似たものもあるから漢字には困らないけど、何せ香港ではトイレを探すのに苦労する。

いかにも中国っぽいデザインのトイレサインだ。女性用トイレのが見たかった。

この写真は、香港国際空港の中のトイレのものなのだが、ずっとこうなったままなのが洒落なのか、ただそのままになっているのか、未だにわからない。

最後は、我が国のオーソドックスなもので閉めよう。

(シリーズ終わり)

流行り言葉

ある晩、台湾の台北の居酒屋で杯を酌み交わしながら談笑していたら、突然台湾の友人が、「ジャーベイ・フォンフアン」「ジャーベイ・フォンフアン」と叫び始めた。

こっちは何を言っているのかさっぱりわからない。日本語ができないその友人は、「おまえ、こんな言葉も知らないのかっ!」と最後には怒り出す始末。焦ってますます何のことだかわからない。

そうこうしているうちに、日本のドラマでの一節であるらしいことが分かった。それを聞いた別の日本人の友人が、「それ、倍返しのことじゃないか?」とつぶやいたら、ようやく一件落着となった。

2013年当時、半沢直樹の前作が大変なブームだった頃、台湾でも放映されて大ブームになり、倍返しが流行語になっていたのである。漢字で書くと「加倍奉還」となり、ドラマを見ていなかったのは私だけで、とても恥ずかしかった記憶が残っている。本当に私のレベルの中国語では、やはり新語や流行語には泣かされた。

閑話休題。台湾でも流行した「倍返し」というこの言葉は、復讐のイメージではなく、受けた恩を倍にして返すという良いイメージでも使う。例えば、デパートや不動産の広告コピーなどにも「倍返し特別セール」という風に盛んに使われたりした。

なかでも出色だったのが議員の選挙広告に使われていたのには驚いた。有権者の負託に倍返しで応える政治家ならいいが、年収の「加倍奉還」をもくろむ政治屋がいたら御免こうむりたいものである。

宮仕えの想い出

私にも宮仕え(サラリーマン生活)をしていた時代がある。それは大学を出てから30歳になるまでの8年間であった。右も左もわからない田舎の大学生が突然大手町に勤務を始めた。誰でもが憧れる大手町も私にとってはただの人の密度の多い街に過ぎなかった。

当時は土曜日は半ドン(死語?)出勤が普通で、毎月の給料も現金の手取りか銀行振り込みかが選べた。

国際通信手段は、テレックスと四字(石ヘンに馬)電と写真電報があり、四字馬電にはすこぶる閉口した。四字馬電とは中国語の漢字ひとつひとつに4桁の数字が割り当てられていて、それをまたひとつひとつ探し出して文章に起こし、さらに一文字ずつKDDIのオペレーターに電話で口頭で伝えていくのである。「1280(ひと ふた はち まる)、3682(さん ろく はち にー)・・・」

毎日、来る日も来る日も独身男の声が、夜遅くまでさみしく響き渡った。

これが私の中国語の基礎が出来上がっていようとは、その時は思いもよらなかった。

第二の故郷(その1)

人にはたいてい第二の故郷を持っている。あなたはどこですか?

私の場合、香港か中国の広州市になる。香港は行った回数が延べ200回を超える最も長く滞在した思い出の地であり、広州は、私が仕事を覚え、将来の行く末を決めることになった私の原点ともいうべき地である。

一番早くいったのが1984年のことだから、かれこれ36年前になる。まだ文革の余波の残る我々外国人にとっては特別扱いされた「古き良き時代」であった。

少々窮屈な点を除けば、あの闘争心旺盛な人だらけの中国で「まともに」過ごすことができた。その象徴が外貨兌換券だった。いわゆる二重価格制なのであるが、この威力は目を見張るものがあった。何をしても並ぶ必要がなかった。

また食事なども別扱いだった。当時の料理と言ったら、まず小皿に皮付きの落花生と唐辛子ソースと練り辛子に、プーアル茶が入ったポットがそっと鎮座しており、ザイモクと呼んでいた広東ではポピュラーな青野菜の「菜芯」の炒め物や白茹でのエビ、痩せた焼鵞(ロースト・ダック)などといった広東料理がいつも並んでいた。

1時間待ってもまだ一品も運ばれてこない人民元払いの客をしり目に平然と何食わぬ顔で食事をすることを常とした。

事実上の租界であった。

裃(かみしも)と人民服

昔、中国かぶれと呼ばれる人たちがいて、独自のカルチャーを形成していた。人民服を着て、手には中国本を持ち、鼓弓でも持ったなら、もう立派な中国かぶれの出来上がりである。

今風に言うと「中国オタク」である。中華料理を好んで食べ、なかには中国語がペラペラな猛者もいた。まさに中国べったりの生活を送っていた。

一方、同じ友好人士でも日本人を忘れず、堂々と中国人と渡り合うことのできる人のことを、裃を着て付き合う人と呼ばれた。堂々と言うと違和感があるが、20年前は、確かにそんな雰囲気だった。

逆に言えば、今や中国の経済力が日本を追い抜き脅威と映っているのか、中国に対して厳しい論調が増え、すっかり変わってしまった。

国民どうしがうまく付き合っていくためには、何を着て臨めばいいのだろうか?

10歳の少年の夢がかなった日(その2)

(前回より続く)
40年来の夢をかなえた後、街へ降りてきて来て小腹が空いたので、場末の食堂に入ることにした。

家庭料理を売りにしたこの店の店内は、混む時間ではなかったので数名の客がいるだけで、のんびりした空気に包まれていた。

メニューには狗肉や兎肉といった文字が普通に並んでいる。

大好物の魚香肉糸をついばむ。魚香肉糸は黒酢の香りがたまらない。あの辛味、酸味、甘味の絶妙なバランスの効いた魚香ソースだけは、本場に足を運ばなければ、北京でも香港でも食べられない味だ。

でも、本場四川ではどこでも普通に食べられる家庭料理である。

 

肉糸と言えば、北京の北京飯店東楼の京醤肉糸も甲乙つけがたい(1986年当時)。あの甜麺醤の香りを嗅いだだけで白ご飯が何杯も進む…。

 

結局ここでは、2-3皿つまんで後にした。

 

ホテルに帰る道すがら、街角で青空書道教室に遭遇した。小学生ぐらいの子供たちが無心で紙と墨に向かってる。

そこには凛とした雰囲気に包まれていた。

「出でよ!未来の王義之たちよ!」

大仏と四川家庭料理とちびっこ書家たちに後ろ髪を引かれる思いで楽山の街を後にした。(2006年筆)