第二の故郷(その2)

(前回より続く)
私の広州での仕事は、当時、日中貿易の約9割を成約していた広州交易会の日本事務局で、20日間(最初は45日間であった。)で約5000人余りの日本からはるばるやってくるビジネスマンの宿泊先の確保であった。

今のようにオンラインで結ばれているわけではなく、完全に手作業で、しかも、5000人皆が予約通りに訪れることはなかった。

台風の晩の午前零時すぎ、ずぶ濡れではるばる日本からやってきた企業戦士に、部屋が満室だからとツインの部屋に3人、4人とお願いしたり、別のホテルに誘導するときなどは生きた心地がしなかった。逃げ出したくなるような気持ちを抑えての仕事だった。

という具合に、ここでありとあらゆる仕事を学んだ。それまでは「社用で中国に行けるから嬉しい、」という素人っぽい想いが、もう行きたくないと、もろくも崩れ去った。

他方でやっと一人前になれたような気がした。

広州は昔から北京中央とは一定の距離を置いていて、しかも華僑の故郷ともあってもともとお金儲けには抵抗がない土地柄なのである。

「寧ろ(むしろ)鶏口となるも牛後となるなかれ」の精神が貫徹しており、リヤカーを引いてでも独立独歩の道を歩めと教えられた。最後まで鶏口でやってきたのもこの教えによるところが大きい。

計8回広州交易会には参加したから、その間ちょうど経済特区となったばかりの小さな漁村だった深センが、みるみる大都会に変貌していくありさまは、さながら「桑田の変」(蒼海桑田)そのものであった。

中国の劇的変化と広東で学んだあらゆることが私の未来の礎になろうとは、その時は露とも知れなかった。

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田中 豊

地域の元気づくりと海外ビジネスを通じて、日本を元気にしたい行動派プロデューサーです。 海外ビジネスの参謀役として長年活動してきました。 とりわけ農林水産業を振興にすることで地域が元気になることを現場の生産者、支援者の皆さんと共に日々実践していることをとても誇りに感じています。 「地域を活かし、そしてつなぐこと」をスローガンに訴え、いつの時でもチャンス(chance)ととらえ、絶えずチャレンジ(challenge)し、チェンジ(change)を果たしていくことの「三つのC」をモットーにしています。